「ショウさん元気ですか。ずっと電話ばかりだったのでこうして手紙を書いてみると、ちょっとだけ新鮮な気分で向かい合える感じがします。
 実は一週間前に入院して手術を受けました。一月前頃から調子が悪くてどうしたんだろうと思っていましたが、ショウさんと電話で話す少し前に検査を受けていて、その結果子宮内膜症と診断されました。薬物治療で直す方法もあるのですが、私の場合手術をした方がいいだろうということだったのでこうなっちゃいました。
 この病気ってそんなに深刻なものではないので心配しないでください。ただ将来赤ちゃんだけはどうしても産んでみたい気持ちがあるので、卵巣とかにメスをいれることはしてません。その分再発というリスクは負いますが、でも大丈夫ですからね。
 だけどこんなこと書いていいのかな。って思いつつ書いちゃいますが、手術の時に麻酔をかけるんですが、遠のいていく意識の中でずっとショウさんの名前を呼んでいました。どうしちゃったんでしょうね。こんなこと書くと迷惑?ですか。ただ凄く今会いたい気持ちでいっぱいです。ショウさんはどうしてこんなにも遠い国にいるんでしょう。もしあなたが近くにいてくれたら私はどんなに幸せだろう。本当にそう思っています。」

 有紀から手紙を受け取るようになって、一番ストレートに気持ちをぶつけられた気がした。
 病気のことはまったく知らなかったことで、僕にはどうしようもなく。だけどかといってそのために僕が有紀の希望をかなえるために日本に会いに行くなんて発想も勿論僕にはできなかった。
 その日、僕は有紀に電話をした。もしかしたらまだ病院にいるかもしれないと思ったけど、電話にでた有紀はきのう退院したばかりだといった。
 術後の経過も良いようで想像以上に元気そうな話し方だったので僕は安心したが、それでもあの手紙に書いた事があるせいかこれまでと違って少し控えめな感じだった。僕はそのことを言おうかなと思ったけど、彼女を心底ケアーできそうもない自分がそこにいる気がしてやめた。

 「ごめん。なにか大変なときになにもできなくて。俺はずっと自分の好き勝手して生きてきたから、今の生き方を急にやめて他人の支えになるなんてことができなくて。いまやってることの目的はなんだ。なんのためにそんな無駄な時間使ってる。っていわれたら返答に困るけど、ただずっとずっと先にぽつんと小さく輝いて光ってるものを感じていて、それが具体的になにかってうまく説明はできないけど、今はそこを目指して生きて、がむしゃらに突き進むことしか考えられないんだ。なんの得にもならないようなことだけど、途中でそれをやめて諦めてしまったら、これからの人生僕は行き場を失うんじゃないかって気がして。」
 「わかってるよショウさん。私が弱気になってついついショウさんに心配かけることいっちゃって、ごめんね。あなたはあなたの思った通りに生きてるから、私はあなたが輝いて見えるの。皆が心の底ではしたいと思ってもできないことを、あなたは一人で頑張って実践してるんだもの。私がつまんないこと言っちゃて、かえって迷惑かけたかもね。」
 
 「ショウさん。でもこれだけは覚えておいてほしいの。世界中のどこにあなたがいようと、世界中で私はあなたのお母さんの次にあなたのことを心配しています。いまはっきりとそれが自分でわかるから言わせてほしいの。」
 ポッカリあいていた心の隙間に、急に温かいものが流れ込んできた。そんな感じだった。
 だけど僕は自分が冷めてるのかヘソ曲がりな人間なのか、急にそんなことを言われても、それをまともに受け止められない自分を感じていた。なぜなら、いまの僕にいったい何があるというのだろう。人の愛情表現を受け止められるような俗化したものは、明日の事もまったくわからないような自分にあるわけがなかった。
 「ありがとう。でもね、そんなことを僕のような人間にいうのはやめてほしい。いまの有紀さんは僕とはまったく違った社会にいて、違った生き方をいていて、それからあなたはもっともっと幸せな人生を送れるだけの条件があるじゃないか。こんな糸の切れたタコのような男のことは、そうだね単なる友達としてみてくれたほうが助かる。」

 有紀はしばらくの間何も言わなかった。
 「いまね目の前をインド系のおばさんだろうな、通り過ぎっていったよ。目の前のチャイニーズ・レストランには中国人の姿も見える。日本にいたらほとんどこんなことって感じないだろうけど、いま僕の手の届くところにはオランダ人がいて、インド人も中国人もドイツ人もイギリス人もいて、勿論黒人だって暮らしてる。
 日本には1億通りの生き様しかなくてあまり変わったもんじゃないけど、いまの僕の目の前には60億通りの生き様が見えるんだ。君にもイメージできるかい。いまの僕はね、いま君がいる社会の60倍も多くのことを彼らから教わっているんだ。
 そりゃあ普通に暮らす日本人から見れば、羨ましいことをしてても結局は敗者になるしかない無駄なことを僕がしてるようにしか映らないかもしれないけど、心の中に沢山の、本当に沢山の真実の選択肢を旅が終わったときに持てるって、これほど幸せなことはないんじゃないかと思う。それがしたいがために僕は日本を出てきた。」

 「だけど、これはあくまでも俺の生き方なんだ。他人を巻き込んでまでできることじゃないことは自分が一番よくわかってるつもりなんだ。
 それにいまだに僕には自分に自信がもてないことがいっぱいある。だってまだ途中なんだもん。終点までたどり着かないと後ろを振り返ってものなんか言えないよ。」
 これは正直な気持ちだった。
 「この道をずっと終点まで旅しない限り、たぶん僕が今度乗り換えるための道はその先にないんじゃあないか。そう思ってる。
 だから僕は、いま君と向かい合うことが怖いんだ。君のためにどうこうできる人間にまだ僕はなっていない。」
 実は90%が自分に言い聞かせるような本音で、残りの10%の部分には自分に無理をしてる気もした。もし自分がいる場所と日本が近ければ、もう少し僕は有紀の気持ちを受け入れていたかもしれない。

 ずっと有紀はだまって僕の一方的な話を聞いていた。たまにすすり泣くような声も聞こえたが、何も言い出せないようだった。
 僕だってこんな孤独で苦しい旅から逃げ出して、有紀のことをギュっと抱しめてあげられるところまで飛んでいけたらどんなに楽だろうと思った。
 だけどそれをしてしまえば、僕は他人を幸せにするどころか自分さえわからないところまで落ちていきそうだった。
 「白浜有紀さん。僕があなたにオーストラリアで初めて会ったとき。あれはバックパッカーズのキッチンだったよね。僕は君の凛とした美しさに圧倒されたのを覚えています。篤史は婚約者がいる人だから変な気を起こすなって僕にクギをさしてたけど、内心僕はあなたにクラッときてました。スタイルもいいし、美れいだし、僕に気を使ってくれたし、言い方は悪いけど、こりゃあ凄い女だなと思いました。後で篤史にあなたが長年オーストラリアで暮らしてきた人だって聞いたときは、やはり生きてきた経験が違うから、それが態度にも顔つきにも表れるんだろうなって感心したよ。
 あなたは本当にイイ女だと思う。勿論あれからずっと、今だってね。」

 そこまで話してやっと有紀から小さな笑いがこぼれたようだった。
 「ショウさんはそこまでいうの。私はあのときショウさんのことをみていて、将来この人の奥さんになる人は大変だろうなって思いました。だって何でもできて何でもしてしまうんだもの。たぶんこの人と一緒にいたら、自分がわがままをいったり手を抜いたりすれば、すぐに裏に回ってカバーしてくれるんだろうな。だけどそれってパートナーからすれば楽なこと。って考えてしまいました。結婚するには大きすぎる人だって。」
 ダイニングのテーブルに座ってじっと僕の顔を不思議そうに見ていた有紀の顔が浮かんだ。
 「そうか、あのとき君はそんなことを考えてたんだ。じゃあ僕は人間としては合格でも異性としては魅力がなかったわけだ。」
 「そうだったかもしれないわね。」
 やっと有紀が笑った。

 「だけどこれから私はどう生きればいいのかな。仕事も辞めちゃって、いままでのようにただ威張り散らすだけの程度の低い純日本製の上司にカリカリすることもなくなったけど、でも何か見つけないとこのままの生活を続けてると私も行き場をなくしそう。」
 その気持ちはわからないでもなかった。本当は有紀という人は中途半端な立場にいると僕は思っていた。海外での生活が長いといってもその殆どはオーストラリアが中心で、他の先進諸国で働いた経験は有紀にはなかった。日本人は戦後アメリカを目指し、アメリカの次に位置づけていたのはヨーロッパ諸国だった。オーストラリアは所詮世界の片田舎の国でしかなかった。だから日本でオーストラリアだけの話を持ち出してみても話のインパクトは弱い。もしこれから本気になって日本社会に喧嘩を売る覚悟があるのなら、欧米を見ることも絶対的に必要だった。
 ただそんなことを女性の有紀に勧めるなんてやぼなことも僕はしたくなかった。

 「もうずいぶん前になるけど、一番最初にインドのカルカッタにあるマザー・テレサの死を待つ人の家に行ったとき、毎朝死体回収に来るトラックの荷台に一抱えはありそうな包みを見たんだ。何だったと思う。実はね、生まれて間もない赤子の死体が3、4体包まれたものだったんだ。担当のインド人が開けて見せてくれたからわかった。赤ん坊だよ。人の死がここまで簡単に扱われていることが凄くショックだった。インドにはカーストという身分制度があって、マザー・テレサの病院に運ばれてくる者はロー・カーストの人達なんだ。乞食や路上生活者などのね。国や社会にとってロー・カーストの人達はそこいらにいる犬やサルと同じでなんの保障も与えられていない。この感覚を受け入れるのにまず時間がかかるんだ。人間の尊厳や人間の権利は当然誰にもあるんだと思って生きてきたんだからね。乞食の子供は乞食で、貰いをよくするために子供の目をえぐり、手足を切る。それが生きてくために普通に行われている。そんなことに目を背けずに直視できる人間にまず自分がならないとここでは何もできないんだ。

 地の果てまでじゃあなく飛行機で10時間もl飛んできた場所でだよ。これはすべて現実です。ここではなんの不思議もないことです。たまたまあなたがたが住んでいる場所でこんなことが日常的なことと思われてないだけで、こんなこと世界中至る所にあり珍しくもありません。って現実をつきつけられるんだ。
 僕達はね、それでやっと目が覚めるんだ。どれだけ自分達が恵まれた環境で暮らしてきたかに気づくんだ。毎日食べれること。毎日安心して寝れること。病気に掛かっても診てもらえる場所があること。それまで何とも思わないで当然と思ってたことの幸運さに気づくんだ。
 そしてそれがわかってもっと色んなことが見えてくると、こんどは人間がどれだけ凄い生き物なのかもわかってくる。追い詰められて虐げられても生きる力を人は持ってるんだという事実が目の前にあるんだもの。

 有紀さんはこれまでそんな現実を自分の目で見たことはなかったよね。
 いまの君に守るものはないでしょ。これから築けることは無限にあるよね。いま住んでる社会の現実が全てじゃないんだってことは、君はオーストラリアを知ってるんだからわかるよね。これだけ条件が揃ってればいろんなことができるじゃないか。毎日が生きる死ぬってレベルで生活してるわけじゃないし、僕達は高望みさえしなけりゃ恵まれて生きてると思えるはずなんだ。なにもなくても自分は幸せなんだって思えたら、そこからいくらだって新しいスタートが切れると思はないかい。
 厳しすぎる言い方かもしれないけれど、日本のように恵まれた国にいて行き場を失うなんて言い方は、僕はあまりにも了見が低いことだと思う。有紀さんがもし仮に自分のことをその程度の人間だと思うんだったら、まず自分をもう一度磨いてみたらどうだい。」
 それまで僕は他人にこういう言い方をしたことはなかったし、しようという気にもならなかった。少なくてもそれまで付き合ってきた日本人の多くは、世界知らずでガチガチな観念に縛られてる連中ばかりと思っていたからだ。それに比べたら有紀はまだ柔らかいお頭を持っている。

 「いつまでたってもショウさんは私に厳しいな。実はいま凄く傷ついてるのに・・・。」
 傷ついてるって言われて僕はすこしドキッとしたけど、少しだが吹っ切れた感じの言い方に有紀がなってきてるのが嬉しかった。
 「でもそうだなァ。いまの私はリセットできる立場にいるんだもんなァ。体力と気力が回復したらもう一度違った社会に頭を突っ込んでみるのもいいかな。それに最近海外の風が恋しくなってきたし。」
 「それはあなたの自由だ。ただ君の家族は頭痛の種が増えたって嘆くかもね。それでも結婚をやめてショックを受けてるだろうから。ところでもう少ししたらオランダを出ようと思うんだ。この国に入ってもう1年になる。本当に早いよ海外での1年は。」
 定住して生活が安定してくると、僕のような不安定な立場の人間は、臆病になったり未知の世界への冒険がどうしても不安になったりする。僕はそれを少し感じ始めていた。だからそろそろ移動の時期といってよかった。

 「10月までにイギリスに入ろうと思う。入国審査をうまく通過できるかどうか不安だけど、イギリスはぜひ見ておきたい国だから何としてでも入り込むつもりだよ。そのためにいま日本の友達に英文の送金証明書を送ってくれるように頼んでるんだ。勿論見せかけのね。そんなもの持てても役に立つかどうかはわからないけど、もし引っかかったときに、一番審査官を説得できそうなものといえばこれくらいしかないからね。後は運だけだ。」
 「ショウさん、それって私のじゃだめなんですか。私だってそれくらいのことしてあげたいのに。」
 「そうだな、英文の証明書だから君の方がよかったかな。でも、あいつは自分の口座に最低でも500万円は持ってる男だから、金額を考えて頼んだんだ。英文の残高証明も付ける必要があるもんでね・・・。まァ、有紀さんにもまた何かを頼むことがあるさ。」
 「私だってそれくらいの蓄えはありますよ。残念だな。」
 僕にはその気持ちが凄く嬉しかった。でもまだそこまで有紀に頼ってはいけないとも思った。

 「もし仕事を見つけるまでに時間があるなら、思い切ってイギリスまで遠出でもしてみるかい。僕はいつでもウェルカムだよ。」
 「えッ、それって本気ですか。そうだな、行きたいな。」
 「ただし僕は何もしてあげられないと思うから、計画は自分で組んで来ること。もしイギリスで仕事を見つけられなかったら悲惨なことになってるだろうから、僕に期待はくれぐれもしないようにね。」
 「いいですとも。日本食の差し入れでもしこたま抱えていきますからね。早く元気ださないとな。」
 有紀の声が弾んできたので、僕は安心して電話を切ることができた。イギリスに来ないかと言ったことも僕にとっては非常に勇気のいることだったが、イギリス入国の壁も含めて、何とかなるくらいの開き直った気持ちになっていた。



 それから2ヶ月して僕はオランダを離れた。
 オランダから南下してフランス、スペイン、ポルトガルと1月ばかり歩き、腹をくくってドーバー海峡を渡る船に乗り込んだが、イギリス入国は意外にも簡単に終わってしまった。
 イギリスでのノー・ビザによる観光目的の滞在期間には6ヶ月という制約がある。僕は4、5ヶ月働いて残りを旅に当てようと思っていたが、案の定職探しでは苦労した。それでもオランダの時に比べれば運がよくて、入国して3週間後にはロンドンで仕事にありついていたので、オランダに入りたての頃のように他民族を呪うようなバカな事もしなかった。

 ただ、有紀はイギリスに結局来ることはなかった。
 僕がイギリスに入って2ヶ月ばかりして、東京にあるアメリカ資本の会社の仕事が取れたという連絡を受けた。そのためにしばらくは仕事に慣れるために動けそうもないということだった。
 僕の正直な気持ちを言えば、凄くがっかりしていた。オランダにいた頃有紀の気持ちを聞かされて、少しずつだが確実に有紀という女性の存在を意識し始めていたからなおさらだった。
 イギリス滞在中の6ヶ月間、僕と有紀はそれほど電話で話す機会も多くなかった。それほど有紀の方が仕事に追われていたということだが、それでも僕の方はというと結構イギリスでの生活を楽しんでした。他人に無関心な風を装うイギリス人の性格が僕には合っていて、このままここで暮らすのも悪くないとさえ思い初めていたくらいだった。





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